珍味昔話|第八章

8-5|異色の業界人・杉江栄三郎

第八章|中部珍味食品協同組合の発展まで
アメリカで西洋菓子(ケーキ類)の作り方を学んだ、森永太一郎が、東京の2坪ほどの借家で、日本最初の洋菓子工場をスタートさせたのが明治32年、この2坪の工場こそ、現在の森永製菓の土台になったのはいうまでもない。
ちょうどその頃、小学校を卒業したばかりの少年が、青雲の志を抱いて愛知県常滑市から名古屋の海産物問屋、堀部勝四朗商店に入ってきた。杉江栄三郎である。

異色の業界人・杉江栄三郎 杉江の不屈の向上心と商売にかけたファイトは、この期間身についたものだろう。杉江は、徴兵検査を機会に店をやめて独立。名古屋を中心に、カツオ節など海産物の行商からはじめて地盤を拡大し、やがて丸栄商店を作る。

巨体の杉江であったが、商売となると、その行動力は敏捷で、珍らしい産物の情報が入ると、すぐにでもとび出していくような熱心さがあった。しかし、どこへ出かけるにも、常に和服で通している。からだが大きかったから、ずい分目立った。
行商で各地を廻っているうちに、珍味のヒントが続々と浮かんでくる。その頃、知多半島では春から秋にかけて、アカシエビが水揚げされるのが、とれすぎてその処分に因っていた。

そこで杉江は漁場まで出かけて行き、エビを原料にした珍味の開発に没頭した。最初は、エビを焼いて売るつもりだったが、途中から「エビセンベイ」の製造に変化していく。
生エビの風味を生かした「小花丸」などを生み出したが、製法を固定化するまでには、ずい分苦労している。大正13年頃になって、ようやく満足できる製品ができ上った。

製造は地元の加工業者に依託し、自分はもち前の行動力をフルに発揮して、料亭などに突き出しとして売りこんだ。新鮮なエビがたっぶり入っているから味もよく、どこまで行っても大歓迎。エビセンべイの成功のおかげで、商売の地盤は不動のものになった。
500匁(1.8キロ)入りひと缶が小売りで3円50銭。白米一升が17銭の時代である。新しい高級おつまみとして実によく売れた。エビセンベイのつぎに「モイカ」を手がけた。
関東ではアオリイカ、関西ではミズイカと呼んでいるイカのことである。三重県産のモイカを、60-70パーセントくらいの生干しにし、船で名古屋に運んだ。モイカは大きなものになると、一枚が一メートルくらいある。身が厚いわりには意外にやわらかくて昧もよく、これも料亭で人気を呼んだ。三重県の主として大王崎から串本沿岸にかけて水揚げされるもので、このイカは現在でもとり扱っているが、一貫して根強い人気を保っている。

昭和9年には、九州の平戸にも乾燥方法の指導に出かけている。名古屋珍味業界の異色行動派は、さまざまなエピソードを残して昭和49年に逝去した。その後を杉江平三社長がつぎ、二代目店主として新しい珍味加工の開発に燃えている。

金城軒|珍味・おつまみの製造・卸・通販|愛知県名古屋市

金城軒|珍味・おつまみの製造・卸・通販|愛知県名古屋市

金城軒|珍味・おつまみの製造・卸・通販|愛知県名古屋市

検 索

全国珍味商工業協同組合連合会

珍味の日