珍味昔話|第八章

8-2|愛知県魚介類加工食料品荷受組合の設立

名古屋でも歴史の古い藤銀本店(現・名古屋市中村区)は初代の鬼頭銀次郎が、明治4年に海産物商人として、本家の八百栄(塩乾物、野菜商)から独立したのにはじまる。

スタートは行商であったが、明治10年には現在の中区下長者町に藤銀商店の店舗をかまえている。明治28年に初代が歿すると、長男の安吉が跡をつぎ、精力的な商いを開始。同年には早くも、第三師団の軍納御用商人に指定され、カツオ節などを盛んに納入している。

そのころの名古屋には、漬けものの専業者はなかったという。料理屋とか乾物屋が、副業で商売をしていたのである。安吉は、先代から受けついだ辛子漬けを製造していたが、さらに「鯛みそ」の製造にも着手して成功している。明治32年、家吉は二代目銀次郎を襲名。このころの同店のとりあつかい品目は、乾物の瓶かん詰めの他に酒やビールなどもあった。

愛知県魚介類加工食料品荷受組合の設立 大正8-9年には、珍味の素材を海外に求め、朝鮮半島のナマコやコノワタに着目。知多産のナマコ解禁前に輸入している。現代珍味の原料は、まさに他界的になっているが、その先駆的行動といってよい。
このころ、辛子漬けが各地で評判を呼び、当店の門を叩く漬けもの製造業者が増えた。銀次郎は、名古屋の特産として辛子漬けを全国的に広めたい一心で、その秘訣を心よく公開。

大正11年には、最新の野菜切断機を入手し、福神漬けの製造にも着手し、国内全域はもちろん、満州、朝鮮から台湾にまで輸出して、名古屋漬けものの声価を高めた。なお、現在の所在地に移ったのは大正九年である。

昭和26年2月、二代目は他界し、長男の金男が跡を継いだ。金男は二代目とともに、早くから家業にたずさわり、戦前から関係していた松坂屋や大丸デパートヘ、積極的な出店をおこなってきた。

話は前後するが、昭和16年、戦時統制経済となって物がきょくたんに少なくなり、取扱い商品の割当てなどの関係から、鬼頭金男は県の要請により、「愛知県魚貝類加工食品荷受組合」を、昭和17年12月22日に設立し、初代の理事長に就任した。組合員の中には、その運営にともなう力を合わせた小中潔、杉江栄二郎、日置鏡一郎などの名前がみられる。

組合は、蒲郡や豊浜の水産加工食品を集荷し、その配給のしごとをおこなった。戦後は戦時組合の目的も終った。
昭和24年に協同組合法が制定。
翌年12月23日に、鬼頭金男、小中潔、鈴木甚清、山円多吉、日置鏡一郎、吉沢久之肋、市川絞次、稲吉喜市、鈴木三郎、尾崎政太郎、加藤義次、大岩正夫、川口仁蔵、加古北治、船坂吉郎の各氏が集まり、愛知県水産加工業者の発展と親睦を目的として、「愛知県水産加工食品協同組合」が設立された。

金城軒|珍味・おつまみの製造・卸・通販|愛知県名古屋市

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