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スタッフ自己紹介♪

更新日:2016年7月6日(水)

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こんにちは!!

珍味くらぶスタッフのいくちゃんです♪

旧ブログでは珍味屋の店番見習いエブリンとして書いていましたが、
ブログも新しくなりましたので、ハンドルネームを変えました。

よろしくお願いします。

そこで、今日は私の自己紹介をさせていただきたいと思います。

株式会社金城軒の三代目社長で現会長の長女としてこの世に生を受けました。

幼稚園の頃自宅の隣の会社から出火した火事で家が全焼したこともあり、今でも火と消防車のサイレンはとても怖いです。

6歳で妹が生まれるまで一人っ子でしたので、わがままし放題に育ったと思われます(^_^;)
兄弟がいなかった代わりに同い年の同性のいとこが3人もいましたので、姉妹のように育ちました。
そして10歳でもう一人の妹が生まれましたので最終的には三姉妹の長女となりました。

母のヴァイオリンが家にあったことから興味を持ち、近くにヴァイオリン教室があったので、3歳よりヴァイオリンを習っていました。
小さい頃の私は人見知りが激しく、特に男の人が苦手でした。(今でも苦手です!!)
自分のおじいちゃんを見ても泣いていたそうです。
そんな私が門をたたいたヴァイオリンの先生は男の先生。
やはり人見知りを抜群に発揮して、初めてのレッスンでは大泣きしてレッスンになりませんでした。
しかし、二回目からは慣れたのか楽しく通い、同じ先生に20歳までお世話になりました。

小学校に行ってもやはり乱暴な男子が苦手で、自然と女子校に行きたいと思うようになり、頑張って受験勉強をして中学校からは女子校に通いました。

高校1年生の時、ヴァイオリンの先生が作っていた弦楽合奏団で当時の東ドイツへ2週間の演奏旅行に行くという機会が与えられました。
初めての飛行機が当時ソビエトの「アエロフロート」、初めての海外が東ドイツというなかなかレアな経験をさせてもらい、今でもいい思い出です。
スチュワーデス物語を見てスチュワーデスさんのサービスを見ていた私は、飛行機に搭乗して、自分の席を見つけて、座ろうとしたら、スチュワーデスさんに、「あなたの席はどこ?」と聞かれ、「ここだ」と言うと、「Sit down!!」とめちゃくちゃ怒られてびびりました(泣)
モスクワの空港でトランジットのため1泊したのですが、もうとにかくすごい緊張感でピリピリしていて、私はここから生きて帰れるのだろうかとビクビクしていました。
そんな緊張感の中モスクワで迎えた朝は私の誕生日だったので、ピーンと張りつめた空気の中、みんなが小声で「ハッピーバースデー」を歌ってくれてすごく嬉しかったのを覚えています。
帰りのモスクワの空港ではまだ全員着席していいないのに飛行機が動き出すというびっくりな体験もしました。
しかし、アエロフロートはソビエトの軍人さんが操縦しているから、操縦はうまいらしいという言葉を信じて乗っていました。

そして、高校2年の時に父がロータリークラブの会員だったことから、ロータリー青少年交換学生として、オーストラリアへ1年間留学しました。
私は人見知りだっただけではなく、非常に大人しい子どもだったので、オーストラリアに行く前に、友達から「いくちゃんは日本語もそんなにしゃべらないのに、オーストラリアへ行って英語をしゃべれるのか?」と心配されるほどでした。
でも当の本人は度胸が座っていたのか、それほど心配することなく旅立ちました。

オーストラリアで私を待ち構えていたのは言葉の壁というより都会と田舎のカルチャーショックでした。
私が滞在したのはシドニーから車で3時間くらい南下した「South Coast」と呼ばれる、海がとてもきれいな場所でした。
シドニーに住んでいる人たちがセカンドハウスを持っている地域で、私が到着したのはちょうどイースターホリデーだったため、たくさんの人がいて、思ったよりいいじゃんと思っていたのですが、ホリデーが終わったら人っ子一人歩いていないくらいの静かなところでした。

まだ高校生で車の運転もできませんから、一人ではどこへも行けない不自由さがありました。

名古屋生まれの名古屋育ちで、中学校から、バスや地下鉄で通学し、休みの日は友達と街でショッピングしたりしていた私にとって、かなり衝撃的な生活環境でした。
後々には海がきれいで、景色がよくてとても環境がいいところだったと思えましたが、16歳の私にはすぐにはなじみにくい環境で、チャンスあれば都会のシドニーに遊びにいっていました。

しかし、人には本当に恵まれて、ホストファミリーもいい方だったし、学校の友達も、異国人の私をすんなりと受け入れてくれて、とても楽しい生活を送ることができました。
人見知りしたり、恥ずかしがって大人しくしていては何もできない環境だったので積極的にしゃべれるようにもなりました。
帰国して私の豹変ぶりにまわりの人はかなり驚いていましたが!!
今はしゃべらずにはいられない人なので、きっとこれが私の本質で小さい頃はいっぱい鎧を着ていたんだろうなと思います。
あっ、でもやっぱりシャイな所はありますけどね。

そんなこんなでとても充実した10代を送っていました。

短大を卒業した後は、千葉県柏市にあるモラロジー研究所の女性講座という全寮制のフィニッシングスクールで、お料理やお茶や着つけなどの、花嫁修業的なことと、道徳に基づいた精神論を学びました。
3か月の講座のあとは次の講座の助手として働かせてもらい、学びを深めました。

名古屋に帰ってからは、ご縁があって名古屋大学の法学部の教授方が作ってらっしゃったプロジェクトの事務局として働きました。
国際シンポジウムなどがあった時は海外からの先生のお迎えをして、ご案内したりと英語を使うことができてとても楽しいお仕事でした。
香港からいらっしゃった大学教授に「君を秘書としてつれて帰りたい」と言われた時はとても嬉しかったです。
しかし、そんな大きなシンポジウムはそうそうあるわけではなく、日常の業務はちょっぴり退屈だったりもしました。
そんななか、事務局担当の教授がとてもコンピュータ関係に明るい方だったので、まだ民間にはパソコンが浸透する前に、パソコンのことを教えていただき、キーボードのブラインドタッチを覚えたりと、お仕事しながらスキルを磨かせてもらいました。

そして何年か過ぎたころ、金城軒の事務の方が少なくなったということで、金城軒に営業事務として勤務することになりました。
当時は現社長のもとで、酒のやまやさんや肉のハナマサさんといった大型チェーン店の注文を受けたり、伝票を作ったりしていました。

金城軒に勤務するかたわら、ロータリークラブの若い人の組織のローターアクトクラブの活動にも参画していました。
オーストラリアに留学した時にロータリークラブには大変お世話になったので、その恩返しができればという気持ちで入会したのですが、ここでも素晴らしい多くの友達に恵まれて、大変楽しいアクト生活を送ることができました。

さて、私は最初にも書いたように三人姉妹の長女で男の兄弟がいなかったものですから、創業以来世襲制で受け継がれてきている金城軒を養子さんをもらって継ぐんだと洗脳されて育ちました。
しかし、私の行いが悪いのか、そういう方とはご縁がなく、30歳を過ぎてしまいました。

さすがにそれで縛り付けておくのはかわいそうと思ったのか、両親からお嫁に行ってもいいと言われ、そんな矢先に今の主人と知り合い、とんとん拍子で結婚しました。
結婚1年目で生まれた長男も今年中学生となりました。

金城軒の仕事は一切していなかった母が、私が長男を生んだあと、ウエブショップ珍味くらぶを立ち上げ、10年以上一人で切り盛りしていました。
母もそろそろ後継者が欲しいということで、長男も中学生になって時間もできてきたので、今年の4月より、珍味くらぶのスタッフとして働くことになりました。

14年ぶりに戻ってきた金城軒は当時の直属の上司が社長になっていたり、母が社内の色々なことをやっていたりと、びっくりなことがたくさんあります。
現在3カ月たって珍味くらぶの業務には慣れてはきましたが、まだまだ勉強することがいっぱいなので、これからも頑張って学んでいきたいと思います。

こうして自分の自己紹介を書いてみると、とても恵まれた生活をしていたんだあと、両親やご先祖様に感謝の気持ちでいっぱいです。

少しでも恩返しができるように、珍味を通してお客様が笑顔になっていただけるよう日々精進してまりますので、暖かく見守っていただきますようお願い申し上げます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました(^○^)


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全国珍味商工業協同組合連合会

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